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リビングに置いてある家族共用PCの前に妹が座っていた。
何をしているのかと思ったら、何もしていなかった。いや、Wordを立ち上げて何かをしようとしていたのは確かなんだが、ここ一週間は連日徹夜でまともなコンディションではなかったためか、Wordを起動した時点で力尽きたらしく当人の意識は8割ほど消失し、「Wordで何かをしなければ」という、PC-98時代の森田将棋よりも遙かにシンプルな意志だけが残ってる状態だった。
それでいて肉体は中途半端に覚醒しているらしく何やらポチポチとキーボードを叩いているのだが、脳味噌が殆ど眠っている状態のためか打ち込まれる単語がまるで脈絡が無い。リアルタイムにその時検索された単語を電光掲示板のように表示するサービスが検索エンジンで一時期話題になったが(おそらく今もあるだろう)、それの一個人の脳味噌バージョンとでも言うべきか。脳味噌が殆ど眠っている、無我の境地か涅槃のような状態にいる妹の脳内世界がキーボードを介して出力され続けるという希有な状況に息を呑まずには居られなかった。
しかも、周囲の音声による刺激にある程度反応するらしく、テレビの電源を入れてボリュームを少しばかり大きくしてやると、その時々に流れる単語に反応して画面の文字列が微妙に変化するのには感動した。実際に観測した時間は数分程度だったと思うが、その時のファイルはこっそり厳重に保管しておく事にしよう。
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リビングに置いてある家族共用PCの前に妹が座っていた。
何をしているのかと思ったら、何もしていなかった。いや、Wordを立ち上げて何かをしようとしていたのは確かなんだが、ここ一週間は連日徹夜でまともなコンディションではなかったためか、Wordを起動した時点で力尽きたらしく当人の意識は8割ほど消失し、「Wordで何かをしなければ」という、PC-98時代の森田将棋よりも遙かにシンプルな意志だけが残ってる状態だった。
それでいて肉体は中途半端に覚醒しているらしく何やらポチポチとキーボードを叩いているのだが、脳味噌が殆ど眠っている状態のためか打ち込まれる単語がまるで脈絡が無い。リアルタイムにその時検索された単語を電光掲示板のように表示するサービスが検索エンジンで一時期話題になったが(おそらく今もあるだろう)、それの一個人の脳味噌バージョンとでも言うべきか。脳味噌が殆ど眠っている、無我の境地か涅槃のような状態にいる妹の脳内世界がキーボードを介して出力され続けるという希有な状況に息を呑まずには居られなかった。
しかも、周囲の音声による刺激にある程度反応するらしく、テレビの電源を入れてボリュームを少しばかり大きくしてやると、その時々に流れる単語に反応して画面の文字列が微妙に変化するのには感動した。実際に観測した時間は数分程度だったと思うが、その時のファイルはこっそり厳重に保管しておく事にしよう。
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以前、小学校に入った年の子供がいきなり「もうこれから何もいいことが起こらないような気がする」と泣き出したのを聞いて、ぎょっとしたことがある。
クリスマスとお正月が過ぎ、三学期が始まったばかりの頃だった。楽しいことが終わって寂しくなったのか、学校で何かいやなことがあったのかと思ったのだが、その子はつぎの日高熱を出した。インフルエンザを発症したのだ。
大人であれば、風邪の引き初めの「何かだるいような感じ」「なんとなく普通ではない感じ」と表現したのだろうが、その「感じ」を六歳の子は、「これから何もいいことが起こらない感じ」と表現した。つまり彼にとっての〈世界〉は、未だ身体と心が別物ではない、風邪に罹った身体の不調は、未来への不安として知覚されたのだ。
わたしたちは「言葉」を介して世界とふれあっている。わたしたちが目で見ているのは、「ものそのもの」ではなく「言葉」であり、「音そのもの」ではなく「言葉」であり、感覚といわれるものですら「暖かさ」「静けさ」「穏やかさ」という言葉を感じているのだ。だが、もしかしたら「痛み」「不快」「不調」「不安」という言葉での分節を知る以前の赤ちゃんにとっては、何もかもが同じことなのかもしれない。
わたしは以前から眠くなった赤ん坊や幼児が泣くのが不思議でならなかった。眠たければ寝ればいいのに、何をいったいぐずぐず言っているのだ、と、眠くてぐずぐず言う弟を見て腹を立てたものだった。だが、彼にとっては、「痛い」のも「眠い」のも、あるいは母がそばにいなくて「不安」なのも、全部同じものとして感じられているのかもしれない。眠くてぐずぐず言うのを、母が抱き取って「よしよし、眠いんだね、ねんねんよ」ということで、「眠い」という分節を知り、転んで泣き叫ぶのを「よしよし、痛かったんだね、お薬をつけようね」と言いきかせて「痛い」という分節を知る。「言葉」を使うこととふるまうことが一緒に示されることで、赤ん坊は言葉の世界に入っていく。そうして言葉の使い方をある程度は知っている六歳の子は、その不安=不調を言葉でそう表現したのだ。
言葉の世界の住人であるわたしたちは、もはや言葉によって分節されなかった世界がどんなものか、想像すらできない。「わたしの身体」「わたしの手」「わたしの足の指」などというように、そんな「身体」を所有している「わたし」が身体とは別にどこかに存在しているかのような気持ちでいる。
けれど、疲れているときのものの見方は疲れていないときとはちがうし、アグレッシブな音楽を聴いていると、自然と気持ちは高揚する。気持ちに対しては嘘はつけても、身体をだますことはできない。風邪を引いたりしたときは、おそらく身体が真っ先に気づくのだ。けれど、言葉で身体と意識を隔ててしまっていると、言葉を使わない身体の声は聞こえない。身体の声を聞く回路というのは、おそらく大人になってしまえば、意識的に作り上げていかなければならないものなのだろう。
"鶏的思考的日常 ver.28 (via tnmemo)